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『 枕 草 子 』


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『 枕 草 子 』(まくらのそうし), 日本平安时代的散文集。 十一世纪初完成。作者清少纳言,平安时代有名的才女,家学渊源,深通和歌又熟谙汉学。据跋文称, 作品以“春是破晓时分为最好”起始,跋文终结,长短不一,共有三百余段。全文大体可分为三种形式的段落。一是类聚形式的段落,通过长期、细致和深入地观察 和思考,将彼此相关、相悖的事物加以分类,然后围绕某一主题,加以引伸;二是随徐伯`式的段落,内容不仅涉及山川草木、人物活动,还有京都的特定的自然环境 在一年四季之中的变化,抒发胸臆,缀成感想;三是日记回忆形式的段落,片断性地记录了清少纳言自己出仕于中宫定子时的宫中见闻,也可说成是宫仕日记。主要 是作者的亲身体验,但也不乏当时流传的故事和戏剧性场面,描写手法诙谐幽默。其中文译本以周作人的译本流传最广、评价最高。
作者身世
《枕草子》的作者清少纳言大致生于九六六年,父亲清原元辅是著名歌人,也是《后撰集》编撰者之一。十六七岁时,清少纳言与橘则光结婚,生下一男子后,就序□・了。九九三年开始,入宫成为一条天皇皇后定子的家庭教师之一。皇后过世後,才又同年龄差距如同父女的藤原栋世再婚。晚年似乎过著僻静的隐居生活。
书名的由来
书名的由来,清少纳言自己在後记有说明。据说,定子的哥哥伊周於某天送了上等纸给皇上与定子。皇上命人书写《史记》,而定子则同作者商讨这些纸的用途。清少纳言初^皮地说:「既然皇上是『史记』,我们就来个『枕头』所諱B」
为什麼「史记」与「枕头」有关?这有処ル多说法,但普遍说法是「史记」发音是「siki」,与鞋底的「底」同音,所以清少纳言才机助e地说出「枕头」。皇后听毕,薯F为赞赏作者的幽默感,便将所有纸都赏给清少纳言。
成书的曲折
皇后定子的父亲是关白藤原道隆,九九五年过世后,本来预定让弟弟右大臣道兼继任,没想到道兼於就任後一周便骤亡,政权移转到道兼弟弟道长手中。道隆、道兼、道长均是藤原兼家的儿子,而藤原兼家正是《蜻蛉日记》 作者的丈夫。道长上任後,因女儿彰子还年幼,无法送进宫当皇上姬妾,於是便以种种阴谋加害皇后一家人。所B巧清少纳言的姐姐是《蜻蛉日记》作者的嫂子,与藤 原家算是远亲,基於这层关系,加上其他女官的渚J□,宫内谣传清少纳言与道长有染,渚D只得暂且辞职回到娘家。就是在这段时期,作者利用定子赏赐的纸,写下 《枕草子》初稿。
其后,定子再三要求作者回宫继续辅助自己,清少纳言才再度回宫,也持续书写《枕草子》。一○○○年冬天,定子生下第三子后,撒手尘寰。清少纳言二度辞职,回家写下有关定子的回忆。
读过《蜻蛉日记》与《枕草子》的人,应该不难发现,同样站在女人立场写身边琐事,前者是「一连串的不幸」,后者则是「一连串的幸福」。以旁观者的立场来分 析的话,藤原道纲之母的处境比清少纳言幸福多了,却身在福中不知福。而清少纳言则非常乐观,宛如向日葵,只朝上ハ光方向抬头,散播灿烂笑容。
文学风格及其对文学发展的影暑Z
清少纳言不同于当时王朝贵族们藷堯ワ于欣赏飞花落叶的感伤情调里,而是在描写自然景物和动植物时,采取积薯F的态度,赞赏纤细的、动态而和谐的美,企求清新明 亮的世界。所表现出的一种“をかし(明快)”之美,与当时王朝审美意识的主流,“もののあわれ(物之哀)”的审美思暑Z并驾齐驱,代表了日本平安朝所゚一种审 美趋向,开创了新的美学范畴。所以此作品被称作“上ハ性”、“青春”而又“富于高度理智”的文学。与《源氏物语》一起被誉为古典文学史上的双璧,也是当今文学史上随徐舶カ学的代表之作。清新明快,形式多样、行文自由的写作风格对后来的散文文学的发展,也产生了不可估量的影暑Z。其中“春天是破晓时分最好的”、“秋天是傍晚最好”,成为千古绝唱。
此作品深受汉文学的影暑Z。其中引用的汉文典籍有《白氏文集》、《史记》 等多种。但作者署レ弃单纯的景物描写方法,巧妙地利用白诗,实现人物和景色的移位,表障U自己期望障U到的效果。如面对齐信的“阑省花时锦帐下”的发问,清少纳 言根据白居易“庐山雨夜草庵中”的诗句,随机应变地回答道:“谁来拜访草庵所□rdquo;。最突出的要数第二百八十二段,在一次大雪过后,定子问左右侍从,“‘箱炉 峰的雪’暑Z如何”?清少纳言随即将庶ィ子高高卷起,请中宫凭栏远眺。左右盛赞清少纳言的博学敏睿,定子也深深地为之感动。原来这是白居易诗《箱炉峰下新卜山 居草堂初成偶题东壁之三》中“遗爱寺钟倚枕听,箱炉峰雪拨庶ィ看”的诗句。无疑清少纳言熟读白诗,并且融会贯通了。
精彩片段摘抄

四时的情趣
春天是破晓的时候最好。渐渐发白的山顶,有点亮了起来,紫色的云彩微细地飘横在那里,这是很有意思的。
夏天是夜里最好。有月亮的时候,不必说了,就是暗夜里,许多萤火虫到处飞着,或只有一処ヲ个发出微光点点,也是很有趣味的。飞着流萤的夜晚连下雨也有意思。
秋天是傍晚最好。夕上ハ辉煌地照着,到了很接近了山边的时候,乌鸦都要归巢去了,三四只一起,処ヲ三只一起急匆匆地飞去,这也是很有意思的。而且更有大雁排成 行列飞去,随后越看去变得越小了,也真是有趣。到了日没以后,风的声暑Z以及虫类的鸣声,不消说也都是特别有意思的。
冬天是早晨最好。在下了雪的时候可以不必说了,有时只是雪白地下了霜,或者就是没有霜雪但也觉得很冷的天气,□快生起火来,拿了炭到处分送,很有点冬天的 模样。但是到了中午暖了起来,寒气所A退了,所有地炉以及火盆里的火,都因为没有人管了,以至容易变成白色的灰,这是不大好看的。
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第1段 春は、あけぼの

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。月の頃は、さらなり。闇もなほ。蛍の多く飛び違ひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光
りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、
飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風
の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも。また、さらでもいと寒きに、火など
急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、温く緩びもていけば、火桶の火も、白き灰がちになり
て、わろし。

第2段 ころは

ころは、正月・三月、四月・五月、七・八・九月、十一・二月。すべて、折につけつつ、一年ながらをかし。
正月。一日はまいて。空のけしきもうらうらと、めづらしう霞こめたるに、世にありとある人はみな、姿かたち心ことに繕ひ、君をも我をも祝ひなどしたるさま、ことにをかし。七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ。白馬(1)見にとて、里人は、車清げに仕立てて見に行く。中の御門の戸じきみ(2)、曳き過ぐるほど、頭一ところにゆるぎあひ、刺櫛も落ち、用意せねば、折れなどして笑ふも、またをかし。左衛門の陣(3)のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人(4)の弓ども取りて、馬ども驚かし笑ふを。はつかに見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、殿司・女官などの、行き違ひたるこそ、をかしけれ。「いかばかりなる人、九重を馴らすらむ」など思ひやらるるに、内裏にて見るは、いとせばきほどにて、舎人の顔のきぬもあらはれ、まことに黒きに、白きものいきつかぬところは、雪のむらむら消え残りたる心地して、いと見苦しく、馬の騰り騒ぐなども、いとおそろしう見ゆれば、引き入られて、よくも見えず。八日。人のよろこびして(5)、走らする車の音、ことに聞こえて、をかし。十五日。節供まゐり据ゑ、粥の木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがふを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、うちあてたるは、いみじう興ありて、うち笑ひたるは、いとはえばえし。「ねたし」と思ひたるも、ことわりなり。あたらしう通ふ婿の君などの、内裏へ参るほどをも、心もとなう、ところにつけて、「われは」と思ひたる女房の、のぞき、けしきばみ、奥のかたに立たずまふを、前にゐたる人は、心得て笑ふを、「あなかま」とまねき制すれども、女はた、知らず顔にて、おほどかにてゐたまへり。「ここなるもの取りはべらむ」など、いひよりて、走り打ちて逃ぐれば、あるかぎり笑ふ。男君もにくからずうち笑みたるに、ことにおどろかず、顔すこし赤みてゐた
るこそ、をかしけれ。また、かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる。いかなる心にかあらむ、泣き腹立ちつつ、人をのろひ、まがまがしくいふもあるこそ、をかしけれ。 内裏わたりなどの、やむごとなきも、今日はみな、乱れてかしこまりなし。除目(6)の頃など、内裏わたり、いとをかし。雪降り、いみじう凍りたるに、申文(7)持て歩く四位・五位、若やかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭白きなどが、人に案内いひ、女房の局などに寄りて、おのが身の賢き由など、心一つをやりて説き聞かするを、若き人々は、まねをし笑へど、いかでか知らむ。「よきに奏し給へ」「啓し給へ」などいひても、得たるはいとよし、得ずなりぬるこそ、いとあはれなれ。
三月。三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の、いま咲きはじむる。柳など、をかしきこそさらなれ。それも、まだ繭にこもりたるはをかし。ひろごりたるは、うたてぞ見ゆる。おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶に挿したるこそをかしけれ。桜の直衣に出だし袿して、客人にもあれ、御兄の君達にても、そこ近くゐて、ものなどうちいひたる、いとをかし。
四月。祭り(8)の頃、いとをかし。上達部・殿上人も、表の衣の濃き淡きばかりのけぢめにて、白襲ども同じさまに、涼しげにをかし。木々の木の葉、まだいと繁うはあらで、若やかに青みわたりたるに、霞も霧も隔てぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、少し曇りたる夕つ方・夜など、しのびたる郭公の、とほく「そら音か」とおぼゆばかり、たどたどしきを聞きつけたらむは、なに心地かせむ。祭り近くなりて、青朽葉・二藍の物どもおし巻きて、紙などに、けしきばかり押し包みて、行き違ひ持て歩くこそ、をかしけれ。末濃・むら濃なども、常よりはわかしく見ゆ。童女の、頭ばかりを洗ひつくろひて、服装はみな、綻び絶え、乱れかかりたるもあるが、屐子(9)・沓などに、「緒すげさせ」「裏おさせ」など、持て騒ぎて、いつしかその日にならむと、急ぎをし歩くも、いとをかしや。 あやしう躍り歩く者どもの、装束き、仕立てつれば、いみじく「定者」(10)などいふ法師のやうに、練りさまよふ。いかに心もとなからむ、ほどほどにつけて、母・姨の女・姉などの、供し、つくろひて、率て歩くも、をかし。蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬ
が、その日、青色(11)着たるこそ、やがて脱がせでもあらばやと、おぼゆれ。綾ならぬ(12)、わろき。

(1)紫宸殿南庭でのお馬渡しの儀。  (2)待賢門の敷居。  (3)建春門にあった左衛門府詰所。
(4)白馬の陣の近衛舎人。  (5)叙位した人のお礼廻り。  (6)地方官を任ずる県召除目。
(7)任官申請の文書。因みに清少納言の父元輔は六十七才で任周防守(山口県)、七十九才で肥後守(熊本
県)に任じた。  (8)中の酉日の賀茂祭。  (9)下駄・足駄の類。  (10)法会で行道の先頭に立
って香炉を持つ役。  (11)黄緑色。六位蔵人は天皇と同じ青色(麹塵の袍)の着用が許された。
(12)待望の六位蔵人と同じ青色を着用する機会に恵まれたものの、当日の着用が本式の綾織ではなく、略式
の平絹であった場合の、当人の張り合いのなさに対する作者の同情。

第3段 おなじ言なれども、きき耳異なるもの

おなじ言なれども、きき耳異なるもの。法師のことば。男のことば。女のことば。下種のことばには、かならず文字あまりたり。

第4段 思はむ子を法師になしたらむこそ、

思はむ子を法師になしたらむこそ、心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進もののいとあしきをうち食ひ、睡ぬるをも、若きはものもゆかしからむ、女などのあるところをもなどか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをもやすからずいふ。まいて、験者などはいとくるしげなめり。困じてうち眠れば、「眠りをのみして」など、もどかる。いとところせく、いかにおぼゆらむ。これは、むかしのことなめり。いまは、いとやすげなり。

第5段 大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに

大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに(1)、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給 ふ。北の門より、女房の車どもも、まだ陣のゐねば、入りなむと思ひて、頭つきわろき人も、いたうも繕はず、寄せて下るべきものと、思ひあなづりたるに、檳 榔毛の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道敷きて下るるに、いと憎く腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立 ちそひて見るも、いとねたし。
御前に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。などか、さしもうちとけつる」と、笑は せ給ふ。「されど、それは、目馴れにてはべれば。よく仕立ててはべらむにしもこそ、驚く人もはべらめ。さても、かばかりの家に、車入らぬ門やはある。見え ば笑はむ」などいふ程にしも、「これ、参らせ給へ」とて、御硯など差し入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。など、その門はた、狭くは造りて住み給ひ ける」といへば、笑ひて、「家のほど身のほどにあはせてはべるなり」といらふ。「されど、門の限りを高う造る人(2)もありけるは」といへば、「あな、おそろし」と驚きて、「それは、于定国(3)がことにこそはべるなれ。旧き進士(4)な どにはべらずは、うけたまはり知るべきにもはべらざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られはべる」といふ。「その御道も、 かしこからざめり。筵道敷きたれど、皆おちいりさわぎつるは」といへば、「雨の降りはべりつれば、さもはべりつらむ。よし、よし。また仰せられかくること もぞはべる。まかり起ちなむ」とて、往ぬ。「何事ぞ。生昌がいみじう怖ぢつる」と、問はせ給ふ。「あらず。車の入りはべらざりつること言ひはべりつる」と 申して、下りたり。
同じ局に住む若き人々などして、万づのことも知らず、ねぶたければ、皆寝ぬ。東の対、西の廂、北かけてあるに、北の障子に懸 け金もなかりけるを、それも尋ねず、家主なれば、案内を知りて、開けてけり。あやしく嗄ればみ、さわぎたる声にて、「さぶらはむはいかに。さぶらはむはい かに」と、あまたたびいふ声にぞ、驚きて見れば、几帳の後に立てたる燈台の光はあらはなり。障子を五寸ばかり開けて、いふなりけり。いみじうをかし。さら に、かやうのすきずきしきわざゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、むげに心にまかするなめり、と思ふも、いとをかし。かたはらなる人をおし起 して、「かれ見たまへ。かかる見えぬ者のあめるは」といへば、頭もたげて見やりて、いみじう笑ふ。「あれは誰ぞ。顕証に」といへば、「あらず。家の主と、 定め申すべきことのはべるなり」といへば、「門のことをこそ聞こえつれ、障子開け給へとやは聞こえつる」といへば、「なほ、そのことも申さむ。そこにさぶ らはむはいかに。そこにさぶらはむはいかに」といへば、「いと見苦しきこと」「さらにえおはせじ」とて、笑ふめれば、「若き人おはしけり」とて、引き立て て、往ぬる後に、笑ふこといみじう、「開けむとならば、ただ入りねかし。消息をいはむに、よかなりとは、たれかいはむ」と、げにぞをかしき。
早朝、御前に参りて啓すれば、「さることも聞こえざりつるものを。昨夜のことにめでて行きたりけるなり。あはれ。かれをはしたなういひけむこそ、いとほしけれ」とて、笑はせ給ふ。
姫宮(5)の御方の童女の装束、つかうまつるべき由おほせらるるに、「この衵のうはおそひ(6)は、 何の色にかつかうまつらすべき」と申すを、また笑ふもことわりなり。「姫宮の御前のものは、例の様にては憎げにさぶらはむ。ちうせい折敷に、ちうせい高杯 などこそ、よくはべらめ」と申すを、「さてこそは、うはおそひ着たらむ童も、参りよからめ」といふを、「なほ、例の人のやうに、これなかくないひ笑ひそ。 いと勤公なるものを」と、いとほしがらせ給ふもをかし。
中間なる折に、「大進、まづもの聞こえむ、とあり」といふを聞こしめして、「また、なでふこといひて、笑はれむとならむ」と仰せらるるも、またをかし。「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のこと、中納言(7)に 語りはべりしかば、いみじう感じ申されて、いかで、さるべからむ折に、心のどかに対面して、申しうけたまはらむとなむ申されつる」とて、また異ごともな し。「一夜のことやいはむ」と、心ときめきしつれど、「いま、しづかに御局にさぶらはむ」とて往ぬれば、帰り参りたるに、「さて、何事ぞ」とのたまはすれ ば、申しつることを、「さなむ」と啓すれば、「わざと消息し、呼び出づべきことにはあらぬや。おのづから、端つ方・局などにゐたらむ時も、言へかし」と て、笑へば、「おのが心地に、賢しと思ふ人の褒めたる、うれしとや思ふと、告げ聞かするならむ」とのたまはする御けしきも、いとめでたし。

(1)長保元年(九九九)八月九日、中宮は修子内親王と共に職曹司から生昌宅に行啓した。十一月七日 の敦康親王出産に備えての移御であった。  (2)定国の父于公、其の門閭壊てり。父老方に共に治む。于公謂ひて曰く、少しく門閭を高大にして駟馬高蓋の 車を容れしめよ。子孫必ず興る者有らむと。定国に至りて丞相と為り、永も御史大夫と為る(漢書)  (3)于公を于定国と誤解している。  (4)文章 生。『史記』『漢書』『後漢書』を受講した。擬文章生→文章生→文章得業生のコースをとる。  (5)修子内親王。長徳二年十二月十六日誕生。四才(満二 才八か月)。  (6)童女の正装用衣服である「汗衫」と肌着の間に着た衣服。  (7)生昌の兄惟仲。この年正月に仲宮大夫を兼ね定子に仕えたが病気を 理由に七月八日に辞任。八月二十日には女院の行啓に騎馬で供奉す。

第6段 上にさぶらふ御猫は

上にさぶらふ御猫は、かうぶりにて、命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが、端に出でて臥したるに、乳母の馬の命婦(1)、「あな、まさなや。入り給へ」と呼ぶに、日の差し入りたるに眠りてゐたるを、脅すとて、「翁丸いづら。命婦のおとど食へ」といふに、誠かとて、たれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾のうちに入りぬ。
朝餉(2)の 御前に、主上おはしますに、御覧じて、いみじう驚かせ給ふ。猫を御懐に入れさせ給ひて、男ども召せば、蔵人忠隆・なりなか参りたれば、「この翁丸打ち調じ て、犬島へつかはせ。ただ今」と仰せらるれば、集まり狩り騒ぐ。馬の命婦をもさいなみて、「乳母替へてむ。いとうしろめたし」と仰せらるれば、御前にも出 でず。犬は狩り出でて、滝口(3)などして追ひつかはしつ。「あはれ。いみじうゆるぎ歩きつるものを」「三月三日、頭弁(4)の、柳かづら(5)せさせ、桃の花を挿頭(6)に刺させ、桜腰に差しなどして、歩かせ給ひし折、かかる目見むとは思はざりけむ」など、あはれがる。「御膳(7)の 折は、必ず向かひさぶらふに、寂々しうこそあれ」などいひて、三四日になりぬる昼つ方、犬いみじう啼く声のすれば、なぞの犬の、かく久しう啼くにかあらむ と聞くに、万づの犬、とぶらひ見に行く。御厠人なるもの走り来て、「あな、いみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ。死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、帰り参り たるとて、調じ給ふ」といふ。心憂のことや。翁丸なり。「忠隆・実房なんど打つ」といへば、制しにやるほどに、からうじて啼きやみ、「死にければ、陣の外 に引き棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬の、侘しげなるが、わななきありければ、「翁丸か。このごろ、かか る犬やは歩く」といふに、「翁丸」といへど、聞きも入れず。「それ」ともいひ、「あえず」とも口々申せば、「右近ぞ見知りたる。呼べ」とて召せば、参りた り。「これは翁丸か」と、見せさせ給ふ。「似てははべれど、これはゆゆしげにこそはべるめれ。また、翁丸かとだにいへば、喜びてまうで来るものを、呼べど 寄り来ず。あらぬなめり。それは、打ち殺して棄てはべりぬとこそ申しつれ。二人して打たむには、はべりなむや」など申せば、心憂がらせ給ふ。 暗うなり て、物食はせたれど、食はねば、あらぬものにいひなしてやみぬるつとめて、御梳髪・御手水など参り(8)て、 御鏡を持たせさせ給ひて御覧ずれば、げに、犬の柱基にゐたるを見やりて、「あはれ。昨日は翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身に このたびはなりぬらむ。いかにわびしき心地しけむ」とうちいふに、このゐたる犬のふるひわななきて、涙をただ落としに落とすに、いとあさまし。「さば、翁 丸にこそはありけれ。昨夜は隠れ忍びてあるなりけり」と、あはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さば、翁丸か」といふに、ひれ伏し て、いみじく啼く。御前にも、いみじう落ち笑はせ給ふ。右近内侍召して、「かくなむ」と仰せらるれば、笑ひののしるを、主上にも聞こしめして、渡りおはし ましたり。「あさましう。犬なども、かかる心あるものなりけり」と、笑はせ給ふ。上の女房なども聞きて、参り集まりて呼ぶにも、今ぞ起ち動く。「なほ、こ の顔などの腫れたるものの、手をせさせばや」といへば、「ついにこれをいひ露はしつること(9)」など、笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「さとにやはべらむ。かれ見はべらむ」といひたれば、「あな、ゆゆし。さらにさるものなし」といはすれば、「さりとも、見つくる折もはべらむ。さのみもえ隠させ給はじ」といふ。
さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほ、あはれがられて、ふるひ啼き出でたりしこそ、世に知らずをかしく、あはれなりしか。人などこそ、人にいはれて泣きなどはすれ。

(1)「内裏御猫産子。女院・左大臣・右大臣有産養事。……猫乳母馬命婦。時人咲之。」(『小右記』 長保元年九月十九日条)  (2)午前十時に供する食膳(『侍中群要』)。  (3)禁衛の武士。  (4)藤原行成。  (5)柳の枝で作った髪の輪飾 り。  (6)髪飾り。  (7)中宮の食膳。  (8)差し上げて  (9)翁丸に正体を吐かせたわね。

第7段 正月一日・三月三日は

正月一日・三月三日は、いとうららかなる。五月五日は、曇りくらしたる。七月七日は、曇りくらして、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えた る。九月九日は、暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、移しの香も持てはやされて。つとめてはやみにたれど、なほ曇 りて、ややもせば降りたちぬべく見えたるもをかし。

第8段 慶び奏するこそ

慶び奏するこそ、をかしけれ。うしろをまかせて、御前の方に向かひて立てるを、拝し、舞踏し、さわぐよ。

第9段 内裏の東をば

内裏の東をば、北の陣と言ふ。梨の木のはるかに高きを、「いく尋あらむ」など言ふ。権中将、「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせばや」とのたまひ しを、山階寺の別当になりて、慶び申す日、近衛司にてこの君の出でたまへるに、高きけいしをさへ履きたれば、ゆゆしう高し。出でぬる後に、「など、その枝 扇をば持たせたまはぬ」と言へば、「もの忘れせぬ」と、笑ひたまふ。「定澄僧都に袿なし。すくせ君に衵なし」と言ひけむ人こそ、をかしけれ。

第10段 山は

山は、小暗山、鹿背山、御笠山。木の暗山、入立の山。忘れずの山、末の松山、方去り山こそ、「いかならむ」と、をかしけれ。五幡山、帰山、後頼の山。朝倉 山、「よそに見る」ぞ、をかしき。大比礼山も、をかし。臨時の祭の舞人などの、思ひ出でらるるなるべし。三輪の山、をかし。手向山、待兼山、玉坂山。耳成 山。

第11段 市は

市は、辰の市。里の市、海柘榴市。大和にあまたある中に、泊瀬に詣づる人のかならずそこに泊るは、「観音の縁のあるにや」と、心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。

第12段 峰は

峰は、譲葉の峰、阿弥陀の峰、弥高の峰。

第13段 原は

原は、瓶の原、朝の原、園原。

第14段 淵は

淵は、賢淵は、「いかなる底の心を見て、さる名をつけけむ」とをかし。勿入りその淵、誰に、いかなる人の、教へけむ。青色の淵こそをかしけれ。蔵人などの具にしつべくて。隠れの淵。稲淵。

第15段 海は

海は、水うみ、與謝の海、川口のうみ。

第16段 陵は

陵は、小栗栖の陵、柏木の陵、雨の陵。

第17段 渡は

渡は、しかすがの渡、こりずまの渡、水橋の渡。

第18段 たちは

たちは、たまつくり。

第19段 家は

家は、九重の御門、二条宮居一条もよし。染殿の宮、清和院、菅原の院。冷泉院、閑院、朱雀院。小野宮、紅梅、県の井戸。竹三条、小八条、小一条。

第20段 清涼殿の丑寅の角の

清涼殿の丑寅の角の、北の隔てなる御障子は、荒海の絵。生きたるものどもの恐ろしげなる、手長・足長などをぞ描きたる。上の御局の戸を押上げたれば、常 に目に見ゆるを、憎みなどして、笑ふ。高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の、五尺ばかりなるをいと多く挿したれば、高欄 の外まで咲きこぼれたる昼つ方(1)、大納言殿(2)、 桜の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、うえには濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給へるに、主上のこなたにおはしませ ば、戸口の前なる細き板敷にゐ給ひて、ものなど申し給ふ。御簾のうちに、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎ垂れて、藤・山吹など、いろいろ好ましうてあま た、小半蔀の御簾よりもおし出でたるほど、昼の御座の方には、御膳(3)参る足音高し。警蹕など「おし」といふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、果ての御盤取りたる蔵人参りて、御膳奏すれば、中の戸より渡らせ給ふ。御供に、廂より大納言殿、御送りに参り給ひて(4)、ありつる花のもとに帰りゐ給へり。宮の御前の、御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、なにとなくめでたきを、さぶらふ人も思ふことなき心地するに、「月も日も変はりゆけどもひさにふる三室の山の(5)」 といふ言を、いとゆるらかにうち出だし給へる、いとをかしうおぼゆるにぞ、げに、千年もあらまほしき御有様なるや。陪膳つかうまつる人の、男どもなど召す ほどもなく、渡らせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目は空にて、ただおしますをのみ見たてまつれば、ほとど継ぎ目も放ちつべし。白き色紙おした たみて、「これに、ただ今おぼえむ古き言、一つづつ書け」と仰せらるる。外にゐ給へるに、「これは、いかが」と申せば、「疾う書きて、参らせ給へ。男子 は、言加へさぶらふべきにもあらず」とて、差し入れ給へり。御硯とりおろして、「疾く疾く。ただ思ひまはさで、難波津(6)もなにも、ふとおぼえむ言を」と、責めさせ給ふに、など、さは臆せしにか。すべて、面さへ赤みてぞ、思ひ乱るるや。春の歌・花の心など、さいふいふも、上・二つ三つばかり書きて、「これに」と、あるに、「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし(7)」といふ言を、「君をと見れば」と書きなしたる、御覧じくらべて、「ただ、この心どものゆかしかりつるぞ」と仰せらるる。
ついでに、「円融院(8)の御時、造紙に、『歌一つ書け』と、殿上人に仰せられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに、『さらにただ、手の悪しさ良さ、歌の折にあはざらむも知らじ』と仰せらるれば、わびて、みな書きけるなかに、ただ今の関白殿、三位中将(9)と 聞こえける時、『汐の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが』といふ歌の末を、『頼むはやわが』と書き給へりけるをなむ、いみじうめでさせ 給ひける」など仰せらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。「齢若からむ人、はた、さもえ書くまじき言のさまにや」などぞおぼゆる。例いとよく書く人 も、あぢきなう皆つつまれて、書きけがしなどしたるあり。 古今の草子を御前に置かせ給ひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末、いかに」と、問はせ給 ふに、すべて、夜昼心にかかりておぼゆるもあるが、けぎよう申し出でられぬは、いかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それも、おぼゆるかは。まいて、五つ六つ などは、ただ、おぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやは、気にくく、仰せ言を映えなうもてなすべき」と、わび、口惜しがるも、をかし。「知る」と申す人な きをば、やがてみな読ンつづけて、夾算せさせ給ふを、「これは、知りたる言ぞかし」「などかう、つたなうはあるぞ」と、言ひ嘆く。なかにも、古今あまた書 き写しなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし。
「村上(10)の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは、小一条の左の大殿の御女(11)に おはしけると、誰かは知りたてまつらざらむ。まだ、姫君と聞こえける時、父大臣の教へ聞こえ給ひけることは、『一つには、御手を習ひ給へ。次には、琴の御 琴を、人より殊に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌二十巻をみな浮かべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞こえ給ひけると聞こし召しおき て、御物忌なりける日、古今を持て渡らせ給ひて、御几帳をひき隔てさせ給ひければ、女御、『例ならずあやし』と、おぼしけるに、草子をひろげさせ給ひて、 『某の月、何の折、某の人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひ聞こえさせ給ふを、『かうなりけり』と、心得給ふもをかしきものの、『ひがおぼえをもし、忘れ たる所もあらば、いみじかるべきこと』と、わりなうおぼし乱れぬべし。その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して、算置かせ給ふと て、強ひ聞こえさせ給ひけむほどなど、いかにめでたう、をかしかりけむ。御前にさぶらひけむ人さへこそ、うらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしうや がて末まではあらねども、すべて、露たがふことなかりけり。『いかでなほ、少しひがごと見つけてをやまむ』と、ねたきまでにおぼしめしけるに、十巻にもな りぬ。『さらに不用なりけり』とて、御草子に夾算(12)さして、大殿ごもりぬるを、まため でたしかし。いと久しうありて、起きさせ給へるに、『おほ、このこと勝ち負けなくてやませ給はむ、いとわろし』とて、下の十巻を、『明日にならば、異をぞ 見給ひ合はする』とて、『今日、定めてむ』と、大殿油参りて、夜ふくるまで読ませ給ひけり。されど、つひに負け聞こえさせ給はずなりにけり。『帰り渡らせ 給ひて、かかること』など、殿に申しにたてまつられたりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦経(13)な どあまたせさせ給ひて、そなたに向きてなむ、念じくらし給ひける。すきずきしう、あはれなることなり」など、語り出でさせ給ふを、主上も聞こし召し、めで させ給ふ。「我は、三巻四巻をだに、え見果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者なども、みなをかしうこそありけれ」「このごろは、かやうなることは聞こゆ る」など、御前にさぶらふ人々、上の女房こなたゆるされたるなど参りて、口々いひ出でなどしたるほどは、まことに、露おもふことなく、めでたくぞおぼゆ る。

(1)正暦五年二月下旬頃(集成説)。  (2)中宮の兄伊周。正三位権大納言。二十一才。   (3)午前十一時の大床子の御膳。  (4)昼の御座まで参上する。  (5)『万葉集』巻十三に入集。  (6)『古今集』仮名序に手習いの歌として 「難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」が見える。  (7)「染殿の后の御前に、花瓶に桜の花をささせ給へるを見てよめる」(古今集) とある。文徳后明子を父良房が称えた。  (8)一条天皇の父帝。  (9)中宮の父道隆。三位中将時代は永観二年(九八四)~寛和二年(九八六)。   (10)一条天皇の祖父帝。  (11)左大臣藤原師尹一女芳子。  (12)竹の串。得点を数えるのに使用。  (13)神社仏寺に使者をして経を奉納 し神仏の加護を祈願した。

第88段 無名といふ琵琶の御琴を

「無名といふ琵琶の御琴を、主上の持てわたらせたまへるに、見などして、掻き鳴らしなどす」といへば、弾くにはあらで、緒など手まさぐりにして、「これ が名よ、いかにとか」ときこえさするに、「ただいとはかなく、名も無し」とのたまはせたるは、「なほ、いとめでたし」とこそ、おぼえしか。
淑景舎(1)などわたりたまひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿(2)の、得させたまへりし」とのたまふを、僧都の君(3)、 「それは、隆円に賜へ。おのがもとに、めでたき琴はべり。それに替へさせたまへ」と申したまふを、ききも入れたまはで、異ごとのたまふに、「答へさせたて まつらむ」と、あまたたびきこえたまふに、なほ、ものものたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと、思したるものを」とのたまはせたる御気色の、いみじう をかしきことぞ、かぎりなき。この御笛の名、僧都の君も、得知りたまはざりければ、ただ恨めしう思いためる。これは職の御曹司におはしまいしほどのことな めり。主上の御前に「いな替へじ」といふ御笛のさぶらふ、名なり。
御前にさぶらふ物は、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、塩釜、二貫などぞきこゆる。水龍・小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、多くききしかど、忘れにけり。「宜陽殿(4)の一の棚に」といふ言草は、頭の中将(5)こそ、したまひしか。

(1) 中宮定子の妹で東宮淑景舎女御原子。(2) 中宮定子の父道隆。長徳元年四月十日薨去。年四 十三歳。(3) 中宮定子の弟隆円。正暦五年(九九四)十一月五日任権少僧都。(4) 紫宸殿の東。その母屋には累代の御物が納められ、一の棚は第一級品 が置かれた。(5) 藤原斉信。頭中将は正暦五年八月二十八日から長徳二年(九九五)四月二十四日まで。

第97段 中納言まゐりたまひて

 中納言まゐりたまひて、御扇たてまつらせたまふに、
 「隆家こそ、いみじき骨は得てはべれ。それを張らせて、進らせむとするに、
おぼろけの紙は、得張るまじければ、求めはべるなり」
と申したまふ。
 「いかやぅにかある」
と、問ひきこえさせたまへば、
 「すべて、いみじうはべり。『さらにまだ見ぬ、骨のさまなり』となむ、
 人々申す。まことに、かばかりのは見えざりつ」
と、言高くのたまへば、
 「さては、扇のにはあらで、海月のななり」
ときこゆれば、
 「これは、隆家が言にしてむ」
とて、笑ひたまふ。
 かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつべけれど、
「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。

第176段 宮に初めて参りたるころ

宮に初めて参りたるころ(1)、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜 々参りて、三尺の御几帳の後ろにさぶらふに、絵など取り出でて、見せさせ給ふを、手にても得さし出づまじう、わりなし。「これは、とあり。かかり。それ か。かれか」など、のたまはす。高坏に参らせたる御殿油なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証に見えて、まばゆけれど、念じて、見などす。いと冷た き頃なれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる淡紅梅なるは、「かぎりなくめでたし」と、見知らぬ里人心地には、「かかる人 こそは、世におはしましけれ」と、おどろかるるまでぞ、目守り参らする。暁には、「疾く下りなむ」と、急がるる。「葛城の神も、しばし」など、仰せらるる を、「いかでかは筋かひ御覧ぜられむ」とて、なほ伏したれば、御格子も参らず。女官ども参りて、「これ、放たせ給へ」など言ふを聞きて、女房の放つを、 「まな」と仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。ものなど問はせ給ひ、のたまはするに、非常なりぬれば、「下りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは、疾 く」と仰せらる。ゐざり隠るるや遅きと上げ散らしたるに、雪降りにけり。登花殿の御前は、立蔀近くて、狭し。雪、いとをかし。
昼つ方、「今日 は、なほ参れ。雪に曇りて、あらはにもあるまじ」など、たびたび召せば、この局の主も、「見苦し。さのみやはこもりたらむとする。あへなきまで御前ゆるさ れたるは、さ思し召すやうこそあらめ。思ふにたがふは、憎きものぞ」と、ただ急がしに出だし立つれば、吾にもあらぬ心地すれど、参るぞ、いと苦しき。火炬 屋の上に降り積みたるも、めづらしうをかし。
御前近くは、例の、炭櫃に火こちたく熾こして、それには、わざと人もゐず。上・、御陪膳にさぶらひ 給ひけるままに、近うゐ給へり。沈の御火桶の梨子絵したるにおはします。次の間に、長炭櫃にひまなくゐたる人々、唐衣こき垂れたるほどなど、馴れ、安らか なるを見るも、いと羨まし。御文取り次ぎ、起ち居、いきちがふさまなどの、つつましげならず、もの言ひ、笑わらふ、「いつの世にか、さやうにまじらひなら む」と思ふさへぞ、つつましき。奥寄りて、三、四人さし集ひて、絵など見るも、あめり。
しばしありて、前駆高う逐ふ声すれば、「殿(2)参らせ給ふなり」とて、散りたるもの取りやりなどするに、「いかで下りなむ」と思へど、さらに、得ふとも身じろがねば、いま少し奥に引き入りて、さすがにゆかしきなめり、御几帳の綻びより、はつかに見入れたり。大納言殿(3)の参り給へるなりけり。御直衣・指貫の紫の色、雪に映えて、いみじうをかし。柱基にゐ給ひて、「昨日・今日、物忌にはべりつれど、雪のいたく降りはべりつれば、おぼつかなさになむ」と申し給ふ。「『道もなし(4)』 と思ひつるに、いかで」とぞ、御いらへある。うち笑ひ給ひて、「『あはれ』ともや、御覧ずるとて」など、のたまふ御有様ども、「これより、何事かはまさら む。物語に、いみじう口にまかせて言ひたるに、たがはざめり」とおぼゆ。宮は、白き御衣どもに、紅の唐綾をぞ、表にたてまつりたる。御髪のかからせ給へる など、絵に描きたるをこそ、かかることは見しに、現にはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。女房ともの言ひ、戯れ言などし給ふ御いらへを、「いささか恥づか し」とも思ひたらず、聞こえ返し、虚言などのたまふは、あらがひ論じなど聞こゆるは、目もあやに、あさましきまであいなう、面ぞ赤むや。御菓子まゐりな ど、とりはやして、御前にも、参らせ給ふ。「御帳のうしろなるは、誰ぞ」と、問ひ給ふなるべし。さかすにこそはあらめ、起ちておはするを、「なほ、ほかへ にや」と思ふに、いと近うゐ給ひて、ものなどのたまふ。まだ参らざりしより聞きおき給ひける事など、「まことにや、さありオ」などのたまふに、御几帳隔て て、よそに見やりたてまつりつるだに、恥づかしかりつるに、いとあさましうさし向かひ聞こえたる心地、現ともおぼえず。行幸など見るをり、車の方にいささ かも見おこせ給へば、下簾ひきふたぎて、「透影もや」と、扇をさし隠すに、なほいとわが心ながらも、「おほけなく、いかで立ち出でしにか」と、汗あえてい みじきには、なに言をかは、いらへも聞こえむ。「かしこき蔭」と、捧げたる扇をさへ、取り給へるに、ふりかくべき髪のおぼえさへ、「あやしからむ」と思ふ に、すべて、さる気色もこそは見ゆらめ。「疾く起ち給はなむ」と思へど、扇を手まさぐりにして、「絵のこと、誰が描かせたるぞ」などのたまひて、頓にも賜 はねば、袖を押し当てて、うつ伏しゐたるも、唐衣に白いものうつりて、まだらならむかし。久しくゐ給へるを、「心なう。『苦し』と思ひたらむ」と、心得さ せ給へるにや、「これ見給へ。これは、誰が手ぞ」と、聞こえさせ給ふを、「賜はりて、見はべらむ」と申し給ふを、「なほ、ここへ」と、のたまはす。「人を とらへて、起てはべらぬなり」とのたまふも、いと今めかしく、身のほどに合はず、かたはらいたし。人の、草仮名書きたる造紙など、取り出でて御覧ず。「誰 がにかあらむ。かれに見せさせ給へ。それぞ、世にある人の手は、みな見識りてはべらむ」など、「ただ、いらへさせむ」と、あやしき言どもをのたまふ。 一 所だにあるに、また前駆うち逐はせて、おなじ直衣の人参り給ひて、これは、今少し華やぎ、猿楽言などし給ふを、笑ひ興じ、われも、「某が、とある事」な ど、殿上人のうへなど申し給ふを聞くは、「なほ、変化のもの・天人などの降り来たるにや」とおぼえしを、さぶらひ馴れ、日頃過ぐれば、いとさしもあらぬわ ざにこそはありけれ。「かく見る人々もみな、家の内出でそめけむほどは、さこそはおぼえけめ」など、観じもてゆくに、おのづから面馴れぬべし。ものなど仰 せられて、「われをば思ふや」と、問はせ給ふ御いらへに、「いかがは」と啓するに合はせて、台盤所の方に、鼻をいと高う嚔たれば、「あな心憂。虚言を言ふ なりけり。よし、よし」とて、奥へ入らせ給ひぬ。「いかでか、虚言にはあらむ。よろしうだに思ひ聞こえさすべきことかは。あさましう。鼻こそ虚言はしけ れ」と思ふ。「さても、誰か、かく憎きわざはしつらむ。大かた『心づきなし』とおぼゆれば、さるをりも、おしひしぎつつあるものを、まいていみじ。憎し」 と思へど、まだ初々しければ、ともかくも得啓し返さで、明けぬれば下りたるすなはち、浅緑なる薄様に、艶なる文を、「これ」とて来たる、開けて見れば、 「『いかにしていかに知らまし偽りを空に糺すの神なかりせば』となむ、御気色は」とあるに、めでたくも、口惜しうも、思ひ乱るるにも、なほ、夜べの人ぞ、 ねたく、憎ままほしき。「『淡さ濃さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほどを見るぞわびしき』なほ、こればかり啓し直させ給へ。識の神もおのづから。いと 畏し」とて、参らせて後にも、「うたて。をりしも、などて、さはた、ありけむ」と、いと嘆かし。

(1)正暦四年十月十五日立冬。閏十月十五日大雪。十一月一日冬至。十二月十七日立春。  (2)中宮の父関白道隆。41才。  (3)兄権大納言伊周。20才。  (4)山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとは見む(『拾遣集』兼盛)による。

第293段 大納言殿参り給ひて

大納言殿参り給ひて、ふみのことなど奏し給ふに、例の、夜いたく更けぬれば、御前なる人々、一人二人づつ失せて、御屏風・御几帳のうしろなどに、みな隠れ 臥ぬれば、ただ一人、ねぶたきを念じて候ふに、「丑四つ」と奏すなり。「明けはべりぬなり」とひとりごつを、大納言殿、「いまさらにな大殿籠もりおはしま しそ」とて、寝(ぬ)べきものともおぼいたらぬを、「うたて。何しにさ申しつらむ」と思へど、また人のあらばこそは、まぎれも臥さめ。 主上の御前の、柱 に寄りかからせ給ひて、少し眠らせ給ふを、「かれ、見たてまつらせ給へ。今は明けぬるに、かう大殿籠もるべきかは」と申させ給へば、「げに」など、宮の御 前にも、笑ひ聞こえさせ給ふも、知らせ給はぬほどに、…………

跋 文  この草子、目に見え心に思ふことを

この草子、目に見え、心に思ふことを、「人やは見むとする」と思ひて、つれづれなる里居のほどに、書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべきところどころもあれば「よう隠し置きたり」と思ひしを、心よりほかにこそ、漏り出てにけれ。
宮 の御前に、内の大臣のたてまつりたまへりけるを、「これに、何を書かまし。主上の御前には、『史記』といふ書を なむ、書かせたまへる」など、のたまはせ しを、「枕にこそは、はべらめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて、賜はせたりしを、あやしきを、「こよや」「なにや」と、尽きせず多かる紙を書き尽く さむとせしに、いとものおぼえぬ言ぞ多かるや。
大方、これは、世の中にをかしき言、人のめでたしなど思ふべき名を選り出でて、歌などをも、木・ 草・鳥・虫をも、いひ出だしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」と、譏られめ。ただ、心一つにおのづから思ふ言を、戯れに書きつけたれば、 「ものに立ちまじり、人なみなみなるべき耳をも聞くべきものかは」と思ひしに、「恥づかしき」なんどもぞ、見る人はしたまふなれば、いとあやしうぞある や。
げに、そもことわり、人の憎むを「善し」といひ、褒むるをも「悪し」といふ人は、心のほどこそ推し量らるれ。ただ、人に見えけむぞ、ねたき。
左中将、まだ「伊勢守」と聞こえし時、里におはしたりしに、端の方なりし畳を差し出でしものしは、この草子載りて出でにけり。まどひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ、返りたりし。それより、歩き初めたるなめり。とぞ、本に。


					
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